ポテトサラダも美味しいお店

「ねえ、わたし、今日アレ」

平日の昼だというのに人でごった返す新鮮な九州の魚を使った料理が自慢の定食屋で明太子を口にする前に志乃は夫に顔を近づけて小さな声で言った。

『あれ…?もうアレだっけ…?』

そんな目をしながら夫は脂の乗った鮪を咀嚼するのを止めて頭の中のカレンダーを指折り数えてみた。アレにしてはまだ早い気がする。

「わたし今日、排卵日」

夫は口の中の鮪が喉に引っかかるかと思いすかさずコップの水を飲み干そうとしたがその心配は無かった。いつのまにか対馬沖で獲れた鮪は溶けてしまっていた。はあ、それにしてもここの定食はどれを選んでも美味しい。

「あ、お水いる?」

志乃はいたって平静な面持ちで夫のコップに水を注ぎ足す。出会って15年も経つのにいまだにこの女の思考が読めない時がある。

「あっ、どうもありがと。えと、しのちゃんそれじゃお腹痛いよね。今日はこの後はやめに帰ってゆっくり…」

コップを受けとろうとした夫の手をギュッと握り志乃はニッコリと微笑む。

「ゆっくり、ね」

夫は呑気に『ああ、この笑顔好きだなあ』と志乃に釣られて微笑み返した。

 

 

「し、しのちゃん…!?」

先程の定食屋から歩いて10分もしない所に志乃が“ゆっくり”したい場所があった。

この街は何をするにも移動が便利…ってこんな時にお国自慢をしている場合ではない。

あいにく満室らしいがあと15分後に清掃が終わるとの事でロビーの隅にある壁で仕切られた待合室のソファに座って少し待つ事にした。

「体調、だいじょうぶ…なの?」

「いつもは排卵日前後ってお腹痛くなるけど今日はそうでもなくて」

「なら良かったけど…」

夫は志乃のお腹をさすりながらホッとする。

その一方、志乃は夫のお腹の少し下をさすってあげる。

「産後はこの日を避けながらシてたけど」

「うん、あっ、ちょ、うん」

「この日って実はいちばんシたくなる日だから困ってた」

ちょうど部屋が空いたらしく、ルームキーを渡しにフロントから店員がやってきたところで2人は身体を離した。人前では絶対に先程のような妖艶な顔を出さない妻。自分しか知らない一面をこの後思う存分見られるのかと思うと思わず顔がニヤける。

「…マスクしててもバレバレだよ」

志乃はルームキーを夫のマスクにコツンと当ててエレベーターに乗り込んだ。

 

ギリギリの大阪

 

志乃は怒っていた。心の中で怒り、泣いていた。

 

「なんかさーわたしさー、寝る前になにしていいかわかんないんだよね!スマホスマホいじるしかない!」

「あいつのスタンプの使い方マジキモいんだけどwなんでそこでキメツ連打するしw」

「でもさ、大阪ならギリいけるくない?」

 

志乃が怒っているのは若い女の子たちが就寝前の時間を持て余す生活を送っている事でもなければ好きな漫画のスタンプの使い所をあいつ(どいつ)が見誤っている事でもない。大阪への距離に対する謎の感覚もどうだって良い。

 

彼女たちのテーブルの上にはプリンが3つ。一口食べたきりで放置されている。

 

「すみません、ついさっき売り切れちゃいました…」

 

極寒の中自転車を漕いでやって来たいつもの喫茶店。頼むのはいつも決まってプリンとアイスコーヒー。そのプリンが今しがた売り切れたという。

「あっ…えと…じゃあ…チーズ…ケーキください」

ああ。ちがう。ちがうでしょわたし。チーズケーキ特に食べたいわけでもないでしょ。

動揺を隠せないままカウンター席に座って読みかけの本を開いた。すると後方からカシャカシャとスマホのシャッター音が聞こえてきた。

「やばー。やばいね」

「ねー。やばい」

おおかたスイーツとドリンクの写真を撮ってキャイキャイしてるのだろう。楽しいよね。楽しいよねその時間。なんやかんやいうても楽しいよね。わたしもひとりでよくしてるよ。ふふ。

ケーキとコーヒーが来るまで読書をしているつもりだったが志乃の後方からこんな声が聞こえてきた。

「みんなプリンってなくね?w」

 

プリン……?

 

 

みんな…?

 

志乃は本を開いたまま全神経を後方に集中させた。落ち着け…プリン柱になるにはこれくらい朝飯前に出来なくては…。いくつかの声が聞こえてくる。1人…2人…3人はいる…!

つまりプリンが3つ後ろのテーブルに…。

 

「シェアできないじゃーん」

「ねーねープリン3つ並べて撮っていい?」

「あ、ひとくち食べちゃった」

「きゃはは」

 

い!や!おまえらシェアハピ()しろよ!なんでみんなプリンなんだよ…!誰か一人でも他のメニュー頼んでたらわたしはプリンにありつけたんだぞ…。

 

「お待たせしましたアイスコーヒーとチーズケーキです」

「あっ、はい。いただきます」

この喫茶店には随分と通っているがプリン以外の甘味を頼んだのは初めてだった。(それもどうなんだ)甘さ控えめで口当たりはねっとりしていて志乃好み。やはりここのメニューには当たりしかない。

プリンは食べることが出来なかったけど、他の甘味のおいしさも知れた。今日はもうそれでいい事にしよう。

甘いものは心のささくれを優しく包んでくれる。チーズケーキを食べ終えて志乃は今度こそゆっくりと読書をはじめた。

30分は経っただろうか。女の子たちの会話は一向に終わる様子はない。気の合う友達との時間は何物にも代え難い。店の狭さに対して彼女たちの声量が少し気になったが志乃は一旦本を閉じイヤホンをして音楽を聴きながらパソコンを開いた。

 

途中お手洗いに立った時に事件は起きた。

女の子たちのテーブルを見ると…プリンがまだある。

え…?一時間は経ったぞ…?この子たち一口食べてそれきりなのか…?久しぶりに会えて話す事がたくさんあってつい夢中になっちゃったとか…?いやいやそれにしてもプリン放置プレイは無いわ…。

志乃は彼女たちの会話内容が気になってイヤホンを外してみた。たちまち冒頭の会話が聞こえてきた。

 

ふ、ざ、け、る、な!!!

 

おまえらにとってはなんとなく立ち寄ってなんとなく頼んでみたプリンかもしれないけどな…わたしにとってのプリンは…プリンは…!

 

パソコンの画面にpudding puddingpuddingpudding pudding puddingと連打する志乃。それなんて動作。

 

 

 

刹那、万歳

 

村上龍。志乃が最も好きな作家。

この時点で彼女のクセの強さにお気づきだろうか。

「ロックだから」

好きな理由を聞かれてもこう答えるだけで彼女は深くを語ろうとはしない。なぜなら好きな理由を知りたがる人間はそもそも村上龍を読んだ事がないか、彼の名前を聞いた事もない類の者だからだ。

「あー、なんかエロくてグロいかんじが苦手」

あっそ。ならハルキでも読んでりゃいいじゃん。

わたしがショルダーバッグを選ぶ基準は財布、スマホ、キーケースに加えて村上龍の「半島を出よ」もしくは辻村深月の「凍りのくじら」がすっぽり入るか否かだというのに。

一人だけいた。村上龍が好きな人。高校時代の同級生クギちゃん。

「志乃ちゃんとわたし、イシくんとノブちんみたいだよね」

その言葉が当時の志乃はすごく嬉しかった。

そんなイシハラとノブエは作中で最終的には復讐のためにとんでもない犯罪をしでかすのだけれど。

クギちゃんは特にこれといった目的もないまま上京して小さな雑貨屋でバイトをしながら江東区で売れないバンドマンと同棲しているらしい。

「ロックだなあ」

連絡先もわからなくなってしまったあの子の事を思い出しながら志乃はつぶやいた。

 

似たもの同士

 

 

その日は昼間から部屋中鏡張りの密室で動物みたいなアレをした。

夫は文字通り果てて眠ってしまった。志乃は寝息を立てる夫の頭を撫でながら天井を見上げていた。そこには髪の毛と化粧が汗と涙と様々な水分とで乱れてなかなかひどい有様の自分が映っていた。

「ひ、ひどい顔」

志乃は慌ててメガネを外して枕元に置いた。いまはわざわざそんな姿を視界に入れる必要はない。うつ伏せになって鏡から目を背けた。

「ひどくないよ」

すっかり眠っていたはずの夫が志乃に覆い被さっていた。

「起こした?」

「ううん。ここスプリングの軋みすごいからね」

人目を避けるように佇む古めかしいホテルのベッドは寝返りを打つだけでスプリングがギシギシと音を立てる。

先刻の動物みたいなアレに比べたらゆっくりめのテンポでベッドは再び音を立て始めた。

男性は一度達すると感度が落ちる一方、女性はどうしてこう、こうも。

「逆に感度が良くなっちゃうんだろうね」

その問いに志乃は答えられなかった。

答えていたのかもしれないけど、何を言っているのかはわからなかった。言葉にならない声をあげ続ける事しかいまは出来ない。

結局動物みたいなアレになって、ベッドがいまにも壊れそうな音を出してきたので場所を変えた。浴室の前、ドアの前、ソファの上。

 

「してる時は呼び捨てに戻るのがすき」

2人でシャワーを浴びながら志乃は話した。

「しのちゃん呼びが定着したからなあ」

付き合いたての頃は下の名前を呼び捨てだった。いつのまにかちゃん付けで呼ばれるようになった。

「しのちゃんもそうだよ。ほら普段は“おとうさん“か“あなた“でしょ。名前をたくさん呼んでくれるからドキドキする」

「か、かずまさん」

「し、しのさん」

「うふふふふふふ」

さっきまでのビーストモードからの、これ。

振り幅とっくにイカれてるわたしたち夫婦は今日も仲良し。この後何食わぬ顔で子供を迎えに行くのよ。うふふふふ。

 

 

塩を少々…

 

—会ったことのない大切なともだちのことを“親友”カテゴリに入れてもよいものかどうか。それが問題だ。

 

「あとは会うだけ、ってのも変な話ですよね」

 

路地裏の洒落たバーのマスターにカウンター越しに問いかけているのかと思いきや志乃の目線の先には陽だまりの中で毛繕いをしているふくよかな野良猫が1匹。なぜに敬語。

 

bar“もふもふ”のマスターことふくよかな野良猫は志乃のそんな問いかけなどまるで聞こえていないかのように熱心に身体中を舐めて身支度をしているようだ。

 

「マスター、この後おでかけ?いいな。わたしもシオちゃんとはやく会ってみたいんす」

 

マスターの舌が届かない額のあたりを人差し指でカリカリと掻いてあげる。マスターは少し気を良くしたみたいで志乃の方をチラリと見た。

 

「ああシオちゃんってのはわたしのおともだちの事です。出会いはゲームの中で。まあ、それから色々ありましていまじゃすっかり仲良くなりまして…あっ、これもシオちゃんにプレゼントするんですよ。マスターには刺激が強いかな、Tバック!」

 

志乃は手に持っていた紙袋の中身をマスターに見せた。周りに誰もいないことはマスターに話しかける前に確認済みだ。

 

会ったことのない友人に、Tバックを、クリスマスに、プレゼントする。

 

まるでランダムに引いて揃えた手札で言葉を作るカードゲームをしたかのようなちぐはぐな文章…。志乃はひとりで吹き出した。

 

34歳が、道端で、野良猫に、Tバックをチラつかせながら、人生相談をする。

 

うん、コレもなかなか強そうな手札。

蜜柑

“じぶんのきげんはじぶんでとれるおんながいいおんな⭐︎”

 

Twitterのいいおんな界隈でよく見かけるツイートの一つ。

 

その法則に従うならわたしはそこそこ、ほどほどのおんな。じぶんが好きなものと嫌いなものを把握しており、嫌な気分になる場所、ひと、ものには触れない近づかない。一方好きなものは広く浅く持っているのでどれか一つに依存することもない。他者からのマイナスオーラも真っ正面から受け止めることはしない。夫や子供に当たり散らすことなどありえない。

「あれ、ほどほどどころかわたしってなかなかいいおんな?」

すっかり界隈のありふれたワードにいい気になっている単純さも相まって今日も志乃はご機嫌様。

しかしいくら本人が嫌なものから遠ざかろうとも時として向こうから志乃に向かって全力ダッシュしてくる日だってあるのだ。

 

「でね…その人たちのことを総称して“フジワラガールズ“とか呼んでんだけどさ(笑」

 

まったくおもしろくないのですが。まったく。いま絶対心の中で語尾にかっこわらい付けたよね?なにその呼称。だっさ。だっっっさ。

 

それを声には出さずに志乃はとにかく閉口した。

 

たまたまタイミングが重なり久しぶりにフジワラと電話をする時間が取れそうだったので昼間の内に志乃からラインを送った。返事はもちろんOKだった。

久しぶりだなあ。何を話そうかなあ。おやつも準備しておこう。友達と電話越しだけど話が出来る。志乃は夜を楽しみにしていた。

 

……はずなのに志乃の眉間には皺が寄っていた。

真偽は不明だがフジワラを慕う職場の女性陣のチーム名には彼のありったけの承認欲求汁がベタベタと塗り付けられており、電波を通じて悪臭が漂ってくるかのような錯覚に陥る。

それを志乃ちゃん一気に飲み干してごらん、と言わんばかりにモテ()話をまくしたてるフジワラの声は志乃の事をまるで知らない人とテレクラで遊んでいる暇人にさせた。

 

わたし、タバコが吸えたならいま間違いなくライターで火をつけてる。もしかしたらそのままiPhone燃やしたかも。

 

わたしは、わたしを嫌な気分にさせる人間が大嫌いだ。

 

そしてフジさんはその事にまったく気付いてない。無駄。なんて無駄な時間なの。

 

無駄な時間は嫌いじゃない。でもいまそこに楽しみが一切存在していない救いの無さが嫌。

おやつのみかんが可哀想だ。みかんだってきっともっと—そう、例えば最近読んだ梶井基次郎の話をする中で「いいなあ檸檬くん。ぼくも志乃ちゃんの手でそっと蔦屋あたりに置き去りにされたいみかん人生だった」なんて思いながらわたしの体内に取り込まれたかったはず。最後に見たわたしの顔が世にも不機嫌な夜叉顔で申し訳が立たない。

 

みかんに謝って。電話をかけたのはわたしだからわたしはいいの。でもみかんは、みかんは—。

 

頭にきたとき、不機嫌なとき、いつも志乃はこんな風に脳内で奇妙な物語を勝手に作り上げていく。怒りや不満で心がいっぱいになる前にどこか少しだけ「く、くだらねえw」といまの状況を自嘲してやりたいからだ。

 

「だっさ」

 

あ、口に出てしまった。あとガールズじゃないからな年齢的にな。

 

電話

 

この数年間は何年後の歴史の教科書に載るのだろう。

世界が変わってもうすぐ1年になる。

 

そしてすっかり変わり果てたこの世界中のどんな本にも載る事はないであろう歴史の一つ。この胸のザワつきの原因であるあの男と出会って10年以上の時間が流れた。

 

丸1年彼とは会っていない。と、いうよりも2020年は友人の誰とも会っていなかった。つい先月どういうわけかお遍路を共にした双葉を除いては。

この年はSNSや電話でのやり取りが家族や友人との主だったコミュニケーションの手段だった。

彼—フジワラは電話が好きな男でことある事に志乃と話をしたがった。志乃ももちろん電話は嫌いではない。直接会うことが難しくなった今、声を聞ける手段はこれしかないのだし。なにより頭の回転が速い彼と話をするのが楽しい。

しかし志乃はここ数年の間で電話に対する考え方に変化が起きていた。

『わたしから電話をかけるのは原則ほんとうに大切な話があるときと、報告のときだけにしよう』

電話はどうしても相手の時間を奪ってしまう。結婚して、子育てをしている友人が増えてより一層こう思うようになった。なにより次に会えたときに顔を見てたくさん話せばそれでいい。と。

一方フジワラは特に親しげな女性もおらず、夜は自分の分の風呂と食事さえ済ませればあとは自由な時間だ。週末ともなれば夜更かしも好きに出来るし眠ければ昼まで布団の中にいることが出来る。20代の頃のように志乃と朝まで電話をしたいがために寝溜めする事だって可能だ。

 

“その日はごめん“

 

週末が近くなるとこの文面をフジワラに送る事が増えた。夫のせっかくの休前日、勉強が終わったら夜は一緒にゆっくり過ごしたかったし翌日は体力が万全な状態で家族で出かけたかった。あの頃みたいに深夜まで電話をしていたら確実につぎの日に響く。まだ始まってもいない明日の事を考える。歳を取るってこういう事なのだろうか。

 

フジさんの事だってもちろん大切。

 

でも、それ以上に家族が大切。

 

そして自分が大切。

 

わたしもフジさんも悪くないよ。誰も悪くない。わたしの人生にとても大事なものが出来た。それだけの事。そしてそれはわたしがなによりも望んでいた事。

だからソノヒハゴメン。

まだ発見されていないハコフグの仲間みたいな名前だなと思いながら淡々と返事を返した。

 

申し訳なさが薄れていくのは良い事なのか、なんなのか。自分でもよくわからないままでいた。